私が死に損ない、何故か折原臨也と言う情報屋に助けられてから半年が経った

信じられない事に、彼は本当に私が以前所属していた組を壊滅させてしまった

彼は、と言っても折原さん自身が組に乗り込んで組合員を片っ端からやっつけたと言う訳ではなく、

得意とする情報収集及び情報操作を駆使して徐々に徐々に壊滅へと追いやって行ったと言う方が正しい

折原臨也が流した偽と虚が真実に絶妙に入り混じる情報のせいで、疑心暗鬼に陥った組合員は面白い位に皆アッサリと散って行った



「良かったねぇ、これでアンタも晴れて自由の身って訳だ」



ある日そう言って薄く笑った彼を見て、私は初めてこの人を怖いと感じた

見た目や言動と言った物理的な部分で怖い人間ならばいくらでも見て来たけれど、感覚的に怖いと感じるのは初めてだ



「凄い、ですね」



そんな安っぽい感想しか言えない私を楽しそうに眺めながら、折原さんは手にしていたトランプのカードをバラバラと床に落として踏み付けた



「もう少し嬉しそうな顔は出来ないの?」

「すみません」

「これで君を縛る物は何一つ無くなったんだよ?君は自由だ。何処にだって行けるし何だって出来る」

「………」

「まぁ…、自由と言う事は反対に言えばアンタにはもう何も残されて居ない、って事でもあるけどね」



折原さんが発した悪意に満ち溢れたこの言葉は、残念ながらこの時の私には響かなかった

それを不満に思う訳でもなく、折原さんは一歩二歩と私に近付き私の肩に手を乗せて囁く



「でも安心して?今度は俺がアンタを拾ってあげるからさ」



綺麗な顔をしたこの男の心の奥底には、一体どれ程の汚い感情が渦を巻いているのだろうか

じっと目を見ても鋭い視線からは感情が読み取れない

私を拾おうとしてくれているのが善意からでは無いのは解る

だからと言って、悪意だけと言う訳でも無いような気がしていた



「私は、貴方に何も返せないですよ?」



私を拾った所で、衣食住に掛かる金銭的負担が増えるだけで何も得る物など無いはずだ

しかし折原さんはそんな事解りきっていると言うように笑い、肩に置いた手とは逆の手を私の腰に回した



「身体で払うって発想は無いの?」

「…折原さんが支払いを要求するなら好きにして貰って結構ですけど…」

「へぇ、やっぱり"そういう取引"には慣れてるんだ?」

「…前にも言った通りそう言った事は一切ありませんが、別にどう思って貰っても構いません」

「全く、波江さんと言い君と言い…、どうして俺の周りには可愛くない女が集まるんだろうねぇ」



折原さんはそう尋ねながらも、私の答えを待つ事なく私から離れた



「まぁ解ってると思うけど、俺は別に君に何かを期待しちゃいないから」

「だったらどうして拾ってくれるなんて言うんですか?」

「俺は人間を愛してるからね」



そんな答えになって居ない答えを返すと、折原さんはPCデスクに腰を下ろしてそのまま私の存在などまるで気にしない様子で仕事を始めてしまった

私はそれ以上何も聞けず、とりあえず邪魔にならないように事務所内の掃除を始める

ここ数ヶ月の間、彼が用意してくれた近くのマンションの一室からこの事務所へ通い、彼の生活リズムは大体理解した

恐らくこの後は18時頃までPCの前から動かないだろう

私は床に散らばっているトランプをかき集め、容赦無くゴミ箱へと入れて行った

折原さんがこれらのトランプを私が所属していた組の構成員に見立てていたせいか、

やけにそのトランプの束が憎らしく感じ、少し乱暴にゴミ箱に投げ入れた時は何となく清々した気持ちになれた

自分の中にもこんな風に誰かを恨んだり憎んだりする気持ちがあったんだと気付いたのは、多分この時だったのだろう



「………」



途中、コーヒーを入れてPCデスク脇に置くと、折原さんは時折それに口を付けながら作業に没頭していた

カタカタとキーボードを叩き、カチカチとマウスを操作する音だけが響く部屋の中で、平和だな、と何となく思う

今までの生活があまりにも荒んでいたせいか、一般的に見ればまだまだおかしなこの環境も私にとってはとても平和で穏やかなものだった



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特にする事がなくなり、私はソファに座りながらぼんやりと雑誌に目を通す

やがて文字の羅列を目で追いながらページをめくっていくと、読者モデルの着回し一週間と言うコーナーになった

パラパラと目を通すと、可愛らしい服を着たモデルが眩しい笑顔を見せながら様々なポーズで写っている

そんな写真を無感情に眺めながらも、私は何となく彼女達の笑顔が気になっていた

組は壊滅し感情を殺す必要は無くなったのに、私は今でもやっぱり感情の変化に乏しいままだ

今までの生活で表情を出さない事に慣れてしまった私が、すぐに表情豊かになれるハズも無かった



「ごめん、おかわり貰える?」



ぼんやりとそんな事を考えていた私は、折原さんの声で我に返りPCの画面を見たままの折原さんの手からカップを受け取った

コーヒーを淹れて戻ると、折原さんは先程私が座っていたソファに座り私が読んでいた雑誌を手にしていた



「どうぞ」



目の前の机にコン、とカップを置くと、折原さんは私を見上げて問い掛ける



「そう言えばアンタの服って地味だよね」



雑誌のモデルと私を見比べて、軽く嘲笑する折原さんに、私はそうですねと同意した



「こう言った華美な服もあるにはありますけど、仕事以外で着る気にはなれないので…」

「一応今此処に居るのも仕事の内なんだけどねぇ」

「折原さんが着ろと言うなら着ますけど」



私が先程と同じような返答をすると、折原さんは意外にも「それじゃぁそうして貰おうかな」と呟いた



「ぇ?」

「だから、明日からはこう言う服を着て此処に来てよ。適当なのが無いならお金は渡すし、何なら今からでも買いに行く?」

「いえ…、」



折原さんのお気に召す物があるかは解らないけれど、家には仕事の為に購入した服がそれなりにある

わざわざ買って貰う必要も無いので私が首を振って折原さんの提案を辞退すると、折原さんは少し嬉しそうに笑った



「意外そうな顔してるね」

「はい、折原さんが提案に乗るとは思わなかったので」

「だろうね、だからこそ俺は君の提案に同意したんだけど。いやぁ、やっぱり人間は表情豊かであるべきだよねぇ」



独り言なのか私に向かって言っているのか解らなかったけれど、折原さんは満足そうに頷いている

そんな折原さんを見下ろしながら、私は首を傾げた



「さて、それじゃぁ今日は帰って良いよ。俺はちょっと今から出掛けなきゃいけないから」

「解りました、それでは失礼します」



折原さんに促され、私は軽く頭を下げてから荷物を持ち事務所を後にした





これが、私が今まで長い間飼われていた秋葦会と言う一つの組織が無くなった日の事だった





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そんな出来事から更に数週間経ったある日の事



「今日は紅茶にして。この間買って来たアッサムがその辺にあるから」

「解りました」



私は相変わらず表情が乏しいまま、折原さんに言われた通りの仕事をしていた

服装はあの時言われた通り、次の日から雑誌に載っている様なそれなりに可愛い服を着用するようになった

折原さんの好みは解らなかったけれど、特に文句も言われないのでそのまま継続している



「あぁそうそう。紅茶は2杯、そこのテーブルに用意してね」



折原さんはそう言ってPCデスクからソファ前のテーブルを指差した

2杯と言う事はこれから誰か客でも来るのだろうか

私はそんな事を考えながらお湯が80度になるのを待った

指示通りテーブルの上にカップを2つ用意し、ティーポットに茶葉を入れ、私は折原さんに声を掛ける



「お客様がお見えになってから淹れた方が良いですよね?」



客が何時に来るのか解らないが、紅茶にしろコーヒーにしろ淹れたてでなければ意味が無い

しかしお湯の入ったケトルを片手に尋ねる私を見て、折原さんは笑った



「別に客なんて来る予定無いけど」

「…?」



意味が解らず首を傾げる私をそのままにして、折原さんはPCデスクからこちらへ移動すると私の手からケトルを奪う



「たまには付き合ってくれても良いんじゃない?」

そう言ってテーブルの上のポットにお湯を注ぐと、ポットに蓋をして折原さんはソファに座った

「ほら、ここ座って」



私の手をくいと引いて、折原さんは私を隣に座らせる

大人しく隣に座った私を満足そうに眺めながら、折原さんはポットを揺らしてカップに紅茶を注いだ



「はい、どうぞ」

「…有難う、ございます」



手渡されたカップを両手で受け取ると、折原さんも自分の紅茶を注いで飲み始めた

私もそれに習い、淹れて貰った紅茶をゆっくりと飲みながら横目で折原さんの様子を伺う



「そんなに警戒しなくても良いのに」



私の視線が気になったのか、折原さんが苦笑しながらカップを机に置いた



「すみません、唐突だったので何事かと思って…」

「まぁ確かに急だったのは認めるけどね。今まで一緒にお茶する事なんて無かったし」

「…何かあったんですか?」

「いや?別にただの気紛れだよ」

「そうですか…」



折原さんの返答を聞きながら、私は再度カップに唇を寄せる



「どう?美味しい?」

「はい、美味しいです」

「そう」

「………」

「………」



何か会話をした方が良いのだろうか

沈黙が続く中でそんな事を考えながら、私はカップを手にしたまま顔を上げる

今まで経験した仕事上、適当な会話を続ける事は私にとっては容易い事だった

それなのに今何も会話が浮かんで来ないのは、折原臨也と言う存在が一般的な人間とは異なるからだろうか

目の前の電源の入って居ないテレビをぼんやりと見つめながら、私はぐるぐると考える

何故急にお茶に誘われたのか

一体彼が何を考えているのか

彼に対して私は何を話せば良いのか

考えても考えても頭は白いまま何も浮かんで来ない

煮詰まった私がふと折原さんを見ると、折原さんは口元に笑みを浮かべながら私をじっと眺めていた



「あの…」



目と目が合い、私が声を掛けると折原さんは薄く笑う



「折原、さん?」



ふいに、折原さんの右手がゆっくりと伸びて私の頬に触れた



「…ぇ」



私は身体を強張らせるけれど、折原さんはじっと私を見たまま視線を離さない

突然の事に動揺したせいか、頬に触れている折原さんの手が動いた時、私の手からカップが滑り落ちた



「ぁっ」



中にまだ少し残っていた紅茶が私の服とソファを濡らし、カップは床に転がる

私はカップの行方を目で追いながら、割れなかった事に安堵した後で再度視線を折原さんに戻した



「はは、動揺してるね。驚いた顔をするのは久しぶりなんじゃない?」



私は落ちたカップを拾う事も出来ず固まったままで折原さんを見つめる

しかし折原さんは暢気にそんな事を言いながら笑うだけだった



「ねぇ。今まで身体を使った事は無いって言ってたけど、もしかして経験無かったりするの?」

「………」

「沈黙は肯定…ってね。まぁ今までの生活を聞く限り恋愛なんてしてる場合じゃ無かっただろうし当然かな」



折原さんはそう分析するように呟いたかと思うと、紅茶のせいで茶色く染まったスカートの裾をおもむろに掴んだ



「汚れちゃったね。これ、染みになっちゃうんじゃない?」

「…そう、ですね」



裾をひらひらと動かす折原さんの挙動を見守りながら、私は静かに混乱していた

正直どうしたら良いか解らなくて硬直していただけだったけれど、

抵抗しない事をつまらなく感じたのか、折原さんはそのままスカートを捲り上げて私の太ももに手を這わした



「あぁ、これガーターストッキングなんだ?意外と大胆だね」

「ぇ…と……」

「結構綺麗な足してるよねぇ。柔らかくて手触りも悪くない」

「、っあの…」

「何?」

「…や、めて…下さい……」



私がお願いすると、折原さんは一瞬きょとんとした顔になった後すぐに声を出して笑い始める



「何がおかしいんですか…」

「いやぁごめんごめん、君が予想外に可愛らしい反応をするからさ」



そう言って尚も笑いながら立ち上がり落ちているカップをテーブルに戻すと、折原さんは私の肩を片手で軽く押した

硬直していた私の身体はそのままソファへと仰向けに倒れ、そんな私を折原さんは愉快そうに見下ろす

顔を赤くすれば良いのか、青くすれば良いのか

私はそれすらも解らずにただ目の前の折原さんを見上げて息を飲む

そうして仰向けのまま折原さんを見上げる私の前で、折原さんは少し得意げに話し始めた



「俺が君を拾った事に対して、君はきっと疑問を抱いているだろうから教えてあげるよ。前も言ったと思うけど、俺は人間が好きだ。
人間のあらゆる行動原理に興味がある。だからこそ色々な人間を様々な状況下に置いてその行動を観察してる…」

「………」

「でも君みたいな特殊な環境で育って、ちょっと…いや大分歪んじゃった人間はそう居ない。
俺はそう言う人間に対して興味があって、そんな俺の前に君は幸か不幸か現れた訳だ」



つらつらと説明をしながら、折原さんはソファに片膝をついて私に覆いかぶさるように迫った



「君は今まで意識的に表情を殺していたんだよね?」

「…はい」

「でも笑おうと思えば笑えるし、むしろ表情を出さないようにする方が難しいと言って俺に実際に笑って見せた事もあった」

「そう、ですね」

「それなのにあの組織から開放された君が、未だに感情を押し殺したままなのはどうしてだと思う?」



至近距離で私を見下ろしながら尋ねる折原さんの問いに、私は視線を反らす事も出来ずに答える



「それは…、もう癖になっているから……」

「癖になってる?違うよ。君は怖いんだ」

「怖い…?」

「そう、君は今まで表情を出さない様にする事で抑えてきた自分の感情が溢れるのが怖いんだ。
君がこれまで押し殺してきた感情は嬉しいとか楽しいと言った良い感情ばかりじゃなくて、
むしろ憎いとか、苦しい、悔しいって言う負の感情の方が遥かに多いはずだからね」



すらすらと折原さんの口から紡がれる言葉は、まるで私の全てを見透かしているように的確だった



「でもいくら無感情を装ったところで君は本当に感情を失った訳では無い。
君は怒りや悲しみや憎しみを感じていながらもそれを表には出さない様に気付かない振りをして過ごして来ただけなんだよ」

「………」

「まぁ気付かない振りも仕事だと割り切れば案外簡単な事だったんじゃない?
人間は目標や目的があると盲目的に努力が出来る生き物だからねぇ。 ただ…、」



そう言葉を続けながら折原さんは私の顔の横に左手をつき、右手で私の胸元に触れる



「俺のおかげで…、いや俺のせいでかな?その目的や目標を失った今、君の中には黒くて汚くてどうしようも無い感情だけが残った」

「………、」

「気付いてるんでしょ?君を捨てた叔母や君を拾ったあの男や組織どころか、自分を先に残して死んだ両親すら恨んでる自分が居るって事にさ」

「そんな事…」

「まぁ何はともあれ憎しみや恨みをぶつける相手が居なくなって、君は本当に独りになってしまった訳だ」



胸元に置かれていた折原さんの右手が、ゆっくりと移動して私の首を優しく掴む様に纏わりつく



「そうやって何にも無くなって、たった独りになっても負の感情だけは無くならない。
むしろ今まで殺して来た感情を取り戻そうとすればする程、溜まっていた憎しみや苦しみが次々と溢れ出て来る」

「私は…」

「そう。君はそれが怖い。だから今でも無表情を装い自分は無感情だと思い続けている」



私の首に触れたままの折原さんの手が、じわじわと熱を持つ

もし今この手に力が込められても、私はきっと抵抗出来ないのだろう

それどころか、このまま折原さんの手で終わるのも悪くないかもしれないとすら思ってしまう

そんな無抵抗な私を見下ろす折原さんの顔は、何を考えているのかやっぱりまるで解らなかった



「俺はね、そんな感情と言う人間の一番面白い部分を無理矢理欠落させた君が感情を取り戻す過程を見たいんだ」

「過程…?」



再度ゆっくりと首から移動した折原さんの手の平の温度を頬に感じながら、私は小さく息を呑んだ

そして折原さんの言葉の意味が解らずただ見つめ返す私に顔を近付けて、折原さんはとても自然に言い放つ



「そう言う訳で、君には俺の事を好きになって貰うよ」

「は…ぇ?」

「良いねぇ。今の君の顔は困惑と羞恥心と驚愕が混じり合ってとても人間らしい表情だ」



折原さんは鼻先が触れそうな程の至近距離からとても優しい声で呟くと、一瞬だけ笑って私の額に唇を押しあてた



「折原さ…」

「あぁそうだ。これから俺の事は名前で呼ぶように」

「…でも……」

「呼ばないと、このままもっと凄い所にキスしちゃうよ?」

「ぃ、臨也……さん…」



そんな脅迫めいた台詞を聞いて私が仕方なく名前を呼ぶと、折原さんは満足そうに笑って私の上から降りた

今まで折原さんに触れられていた部分が熱を失い、それを寂しいと感じたのはきっと何かの気のせいだろう



「さて、それじゃぁいい加減床を片付けようか」

「ぁ…、すいません。すぐ拭きます」



折原さんの視線が私からソファと床へ移り、私は慌てて起き上がる



「あぁ良いよ。君はそのスカートを着替えておいで」

「着替えと言われても…」

「そこにある紙袋の中に服が入ってるから」



折原さんが指差す先にある紙袋は、確かに女性用の洋服店の物だった



「どうして…」

「この間似合いそうなのがあったから買っておいたんだ。本当はもっと別のタイミングで渡そうと思ってたんだけどね」

「別って…?」

「ん?それはもちろん君が俺の家に泊まった日、とか」

「…………………」

「まぁそうなるにはまだ時間が掛かりそうだからね、良い機会だし先に渡しちゃうよ」

「……でも貰う理由が…」

「プレゼントを受け取るのに一々理由が必要?」



一体どうしてこうなったのか

私の手を取り問い掛けてくる折原さんを見上げながら私は必死で思考を巡らせる

先程言っていた通り、全ては彼の気紛れなんだろう

この人は普通の人と少し違う私を観察する事を楽しんでいるだけだ

そこには好奇心以外の感情は無くて、そんな事は私だって理解している

触れられている手がぞくぞくと痺れるのも、何故か上昇して行く体温も、鼓動が早くて苦しいのも、

全部気のせいに違いない



「どうせなら俺が着替えさせてあげようか?」

「…結構です。着替えて来ます」



くすくすと悪戯っぽく笑う折原さんの手を解き、私は紙袋を持って洗面台へと向かう



「ねぇ



珍しく名前で呼ばれ足を止めて振り返る私に、折原さんは少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべた



「俺、これで結構本気だから」

「………」



心を読み取ったかのような折原さんの言葉に、私は思わず視線を反らして足早に洗面台に向かった

扉を閉めて紙袋を洗面台の上に置き、ふと見た鏡には仄かに赤く染まった顔の私が写っている

この赤い頬は、

何故か泣きそうなこの表情は、

私の気のせいなのだろうか

恥ずかしさの余り逃げるように洗面台に向かう私を見送る折原さんの目が酷く優しげだったのも、

その表情に思わず締め付けられたこの心臓の痛みも、

全部全部…



「気のせいな訳…無いじゃない……」



今まで見て見ぬ振りをして来た感情が一気に溢れ出る様な感覚に襲われ、私はずるずると床に座り込みながら力無く呟く

折原さんに言われた通り、私は私を捨てた叔母が、叔父が、私を拾ったあの人が、あの組織が憎かった

組織は今や折原さんによって壊滅に追いやられたものの、男の生死までは解らない

目の前で無様に死んで行く所が見たい、自分の手で滅多刺しに出来ればどれ程スッキリするだろう、

そんな笑える位におぞましい事だって、半年前折原さんに出会う前までは毎日のように心の奥底で考えていた

それでも、自分がこんなにも醜い感情に侵食されている事に私は今まで気付かなかった

気付いたのは、折原さんの元に通う様になってからだ

折原さんの言動は私を混乱させたり呆れさせる事も多かったけれど、呆れたり驚いたりする毎日を私はいつからか楽しいと感じていた

そして楽しいと感じれば感じる程に、ドロドロとした汚い感情も一緒に溢れ出るのが解った

それはまるで融けた氷のようで、再び凍らせる以外にこの負の感情を静める方法を私は知らなかった

しかし、そんな氷は折原さんの言葉で完全に融かされてしまった



"そう言う訳で、君には俺の事を好きになって貰うよ"



折原さんに言われた言葉を思い出し、私は両手で顔を覆う

私は折原さんには感謝しているし、他の人と比べればそれなりに好意も抱いている

だからと言ってそれが恋慕の情かと問われれば、それはまだ解らない

でも、このまま折原さんと接していけば、私は恐らく彼を好きになってしまう

そして本当に好きになったその時に、苦しむ事になるのは私自身だ

それでも彼の元を去ろうと思わない時点できっと未来は決まっている

私はよろよろと立ちあがり、鏡の中の自分と目を合わせるとゆっくりと目を閉じて息を吐いた





『鈍色モノローグ』





- END -