罪歌の活動が活発になってから数日が過ぎた、ある日の日曜日
もはや慣れた足取りで折原さんの事務所に向かった私を迎えたのは、折原さんではなく髪の長い綺麗な女性だった
「どちら様?」
「ぁ、あの…」
「…あぁ、貴女があいつの言っていた高校生のお手伝いさんね」
ソファに座っていたその人は立ち上がって私の頭から足先までを一通り眺めた後で納得したように呟く
どうやら私の事は折原さんから聞いていたらしく、私はひとまず頷いてから名前を名乗った
「はい。ぇっと、です」
「そう。私の事はあいつから何も聞いていないのかしら」
「そうですね、聞いていないです…」
私がそう答えると、その女性は腕組みを解いて溜息を吐き、再びソファに腰を下ろすと私に向かって声を掛ける
「あいつなら暫く戻らないから、貴女も座ったら?」
「ぇ?あ、ぇと、それじゃぁ…」
促されるままに大きなソファの端っこに座り、私が横目で様子を伺うと女性も私の方を向き口を開いた
「貴女、来良高校なんですって?」
「はい」
「それなら誠二を知ってるかしら」
「誠二?」
「えぇ。矢霧誠二よ」
女性の唐突な問いに疑問符を浮かべながらも、私は矢霧誠二と言う名前について記憶を辿る
矢霧誠二は確か竜ヶ峰くんと杏里ちゃんと同じクラスだったハズだ
半年前の入学初日に学校を休む宣言をした彼は、行方不明だった張間美香と共に戻って以来始終ベッタリで、学校ではちょっとした有名人だった
私はそれらの情報を浮かべたものの、目の前の女性の雰囲気から余計な事は言わない方が良い空気を読み取り、ただ一言「知っています」とだけ答える
そんな私の言葉にその人は"当然よね"と呟きながら一度頷き、再び私の方を向いた
「私は矢霧波江。その矢霧誠二の姉よ」
「お姉さん、ですか…?」
思い掛けない言葉に驚き、私は改めて矢霧くんのお姉さんだと言うその人を見る
確かに言われてみれば目や表情などが似ている気もする
「矢霧くんとはクラスが違うので、お姉さんが居るなんて全然知りませんでした」
「あら、そうなの」
「はい。でもどうして矢霧くんのお姉さんが此処に…?」
私が尋ねると、矢霧くんのお姉さんは僅かに眉を顰めて忌々しげに呟いた
「あの子さえ…、あの子さえ邪魔しなければこんな奴の世話にならずに済んだのに…」
「……?」
心の底から憎んでいると言った様子で呟くお姉さんの姿に、私は戸惑い首を傾げる
するとお姉さんはそんな私に気付いて我に返ったのか、咳払いをして髪の毛を掻き上げると再び言葉を続けた
「まぁ半年前に色々あって…、不本意だけど今は此処で働いているの。悪いけど私が此処に居る事は誰にも言わないでおいてくれるかしら」
お姉さんの言葉は口調こそ柔らかいが何処か有無を言わさぬ迫力で、私は思わず首を縦に振る
「解りました、誰にも言いません」
「有難う。物分りが良い子は好きよ」
私が素直に頷くと、矢霧さんのお姉さんは満足そうに呟いた
結局お姉さんが此処に居る理由は解らないまま、私は事務所を見渡しお姉さんに尋ねる
「…所で、折原さんは何処に行ったんですか?」
「あいつなら今朝粟楠会に呼ばれて出て行ったわよ」
「戻るの遅いんでしょうか」
「さっき連絡があったけど、少なくとも夕方は過ぎるみたいね」
「夕方ですか…。私の事とか何しておけば良いとか、そう言うのって聞いてますか?」
「いいえ。貴女の事は昨日帰り際に突然聞かされただけだから」
「そう、ですか…」
お姉さんの言葉を聞きながら、私は何となくもやもやとした気持ちを抱く
突然出掛ける事になってしまったとは言え、人を呼び付けておいて知らない人と2人きりにして放置だなんて酷い話だ
そもそも、お姉さんの話を聞く限りお姉さんは半年前から此処に居たらしいがそんな話は折原さんから聞いた事が無かった
お姉さんも私の事を知ったのは昨晩だと言うし、こんな気まずい状態で何をどうしろと言うのか
言うのを忘れていたのか、言う必要が無いと思っていたのか、どちらにしても納得は行かない
大体、従業員か助手か秘書かは知らないがこんな人が居るなら前回私が資料のまとめを手伝う必要なんて無かったじゃないか
今日だってなんのつもりで呼んだのかは知らないが、お姉さんに連絡を入れる暇があるなら私にだって連絡してくれても良いだろう
そして今日は急遽予定が入ったと言ってくれれば、私はわざわざこんな所まで足を運ばずに済んだのだ
「………」
私はソファに座って両腕を組みながら、この場に居ない折原さんへの恨み節を心の中で吐き出し続けた
そんな中、先程お姉さんが言っていた"半年前"と言う言葉について私はふと考えを向ける
半年前と言えば丁度首なしライダーの騒動やダラーズの集会などがあった時期だが、お姉さんが此処に来た事とそれとは何か関係があるのだろうか
"あの子さえ邪魔しなければ"とも言っていたが、"あの子"とは誰の事なのだろうか
私はお姉さんの言う"あの子"に該当しそうな人物を考え、とある人物を思い浮かべた
「……あの」
「何?」
「矢霧くんのお姉さんって、もしかして矢霧製薬の方ですか?」
私は聞いた後で突然こんな事を聞いたら怒られるかもしれないと思い身構えたが、お姉さんは特に怒る事も無く普通の様子で首を振った
「今は違うわ」
「今は…」
「えぇ」
今は、と言う事はつまり前までは矢霧製薬に勤めていたと言う事だ
恐らく半年前に何かがあり、そのせいで今は此処に居て、先程の誰にも言うなと言う発言から考えてお姉さんは誰かから追われる身なのだろう
その"誰か"はきっと矢霧製薬で、矢霧製薬と半年前にひと悶着あった人物と言えば竜ヶ峰くんしか考えられない
そしてその後矢霧製薬に居られなくなったお姉さんを抱え込んだのが折原さんとなると、矢霧製薬とダラーズの因縁すら折原さんのせいなのかもしれない
私がそんな事を考えていると、お姉さんはスッと立ち上がりそのまま事務所スペースを後にした
・・・
暫くして戻って来たお姉さんは、紅茶の入ったカップを私の前の机に乗せながら私に向かって呟く
「珈琲の方が良かったかしら」
「いえ、紅茶の方が好きです。有難う御座います」
私がぺこりと頭を下げると、お姉さんは再びソファに腰を下ろし自身で淹れた紅茶を飲みながら私に声を掛けた
「波江で良いわよ」
「…ぇ?」
唐突に言われた言葉に理解が追い付かず、私は疑問符を浮かべる
「一々"矢霧くんのお姉さん"じゃ呼びにくいでしょ」
そんな私にそう言いながら、お姉さん改め波江さんは机にカップを置く
私は戸惑いながらも、彼女が決して馴れ合うつもりは無くただその方が合理的だからそう言っただけに過ぎないと言う事を理解し頷いた
「解りました。それじゃぁ波江さん、改めて宜しくお願いします」
「えぇ、宜しく」
きっとこの先、この事務所で幾度と無く顔を合わせる事になるだろうとお互いに感じていたのかもしれない
私と波江さんは改めて挨拶を交わし、時折折原さんの悪口を言い合いながら折原さんの帰りを待った
・・・
数時間後
すっかり波江さんと2人と言う事にも慣れた私は、波江さんに教わりながら調査書の整理をしていた
「調査書は基本依頼を受けた日ではなく調査が完了して依頼主に報告をした日付でまとめるのよ」
「へぇ…。どうして依頼日じゃ無いんですか?」
「物によっては時間が掛かる依頼もあるから、依頼日でまとめるとまだ調査が済んでいないものを後から閉じるのが面倒なの」
「なるほど。ぁ、それじゃぁ未報告の調査書をまとめておく時は何順ですか?」
「基本依頼内容と依頼日順ね。調査期限が決まっているものは別ファイルに期日順でまとめてあるわ」
波江さんは淡々とした調子で教えてくれるけれど、質問をすればきちんと答えてくれる
少し気難しい雰囲気はあるものの、会話がスムーズに進む分折原さんよりは良いかもしれない
私がそんな事を考えながら教わった通りにファイルを閉まっていると、ようやく雇い主兼家主である折原さんが帰って来た
「ぁ、折原さんおかえりなさい」
「随分遅かったわね」
ソファに座って作業していた私と波江さんが顔を上げると、折原さんは意外な物を見る目で私達を見下ろした
「へぇ、俺が居ない間に随分仲良くなったんだね」
そう呟いて窓際の自分のデスクへと移動した折原さんに波江さんがムッとした様子で返す
「貴方がロクに指示もしないで放っておくのが悪いんでしょう」
「やだなぁ波江さん。俺はただ仲が良いんだねって言っただけなのに、どうして怒る訳?」
「貴方の言い方や表情が一々癇に障るのよ」
波江さんは本当に苛立たしいと言った様子で吐き捨てるが、折原さんは全く意に介していない様子で笑って返す
「仮にも雇い主に対してとんだ言い草だね」
折原さんは苦笑と共に溜息を吐き出すと、「あぁ、そうそう」と思い出したように呟きながら私の方へ顔を向けた
「ただいま」
「ぇ?」
「ホラ、さっきおかえりって言ってくれたから一応言っておいた方が良いかと思って」
「ぁ、あぁ…、はい」
そう言って折原さんは前回見せた機嫌の良さそうな顔を私に向けた後、立ち上げたパソコンへと視線を移す
私は折原さんの予想外の行動に不覚にもときめいたが、すぐに我に返り心の中で今のは無効だと必死に言い聞かせた
「やっぱり長年一人暮らしをしていると挨拶と言うものが不足しがちだよね」
そんな私の事など余所に、折原さんはモニタに視線を向けたまま独り言のように呟く
「波江さんなんかこの半年間一度も"おかえり"なんて言ってくれた事無いしさぁ」
「当たり前じゃない。むしろ帰って来なくても良いと思ってるわよ?」
「そんな事言われると雇い主の権限で"お帰りなさいご主人様"と言うのを義務付けたくなるね」
「すり潰すわよ」
折原さんの呟きに、波江さんが淡々と言葉を挟む
互いに悪態を付いてはいるものの、2人からはいつもの事と言った雰囲気を感じた
決して仲が良さそうには見えないし、波江さんと折原さんに男女としての情は無いだろう
それでも何となく互いの事を知っているような、認めているような
そんな絆の様な物を2人の間に感じ、それを目の当たりにした私の胸は何故かどくりと嫌な音を立てた
「……っ」
「どうかした?」
「いえ、何でも無いです」
正体不明の感情にうろたえる私に折原さんが声を掛けるが、私は咄嗟に何でもない振りを装う
「折原さん」
「ん?」
「このファイルの整理が終わった後って何かやる事あるんですか?」
私が尋ねると、折原さんは一瞬波江さんに視線を移し、すぐにまた私の方を向くと笑顔で首を振った
「特に無いよ。今日は波江さんに君を紹介しようと思っていただけだからね」
「そうですか…」
「はぁ?それなら最初からそう言っておきなさいよ。手伝いって聞いてたから色々やらせちゃったじゃない」
「な、波江さん、私なら大丈夫です。色々教えて貰えて楽しかったですし」
「ほら、さんもこう言っている事だし、俺は居なかったけど結果として顔合わせは済んだ訳だしさ」
「全く…」
少しも悪びれた様子も無く飄々と答える折原さんに、波江さんは呆れた表情で息を吐く
そんな何気ないやり取りを見ただけなのに、私は妙な居心地の悪さを覚え、今すぐこの場から逃げ出したくて思わず立ち上がった
そして出来る限り平常を装い、2人に向かって声を掛けながらソファ横に置いてあった鞄を掴む
「あの、それじゃぁ明日は学校もあるし、私そろそろ帰りますね」
「お疲れ様。帰り道は気を付けなさいね」
「そうそう。池袋では相変わらず罪歌が子を増やしてるから、間違って切られないようにね」
そんな2人の見送りの言葉を背に、私は事務所の客室を後にした
「ホント、嘘を付くのが下手なんだねぇ」
去り際にそう呟かれた折原さんの言葉に気付く事なく、そのまま玄関に向かいビルを出る
私は自分の胸の中に渦巻く感情を冷静に考察する事も出来ないまま、兎に角此処から離れたくて足早に家路を急いだ
Scene5【遭遇】case1:波江
2014/05/20